この引退ブログを開いてくださった皆さん、こんにちは、あるいはこんばんは。11月上旬の秋季リーグ順位決定戦をもって男子部を引退した4年の髙田修太郎です。
気が付けば毎年恒例の引退ブログラッシュも終盤戦と言いたいところですが、執筆開始時点では更新が滞ってしまっているようです。かく言う私も更新を滞らせている張本人の1人です。この文章を書き始めたのは2024年12月28日の17時過ぎ、年内の都内での用事をすべて済ませ、実家である岐阜に帰省する新幹線の車内でのことです。最初の締切は11月中だったのですが、”HP係”改め”広報”を務めてくれている後輩の慶一郎からは、「主務なので最後から3番目に文章を掲載する予定です!」と聞いていたので、それに合わせて書き上げればよいかなと執筆を先送りにしてしまいました。3年半を通して同期内や部内の仕事を一手に引き受け、締切を守ってくれないことにあれほど苦慮していたのに、引退したら何食わぬ顔でこんなにも締切を超過してしまうなんて、いつの間にそんなに偉くなったことやら。結生ちゃん、かじけん、幹二が早く提出してくれるってところもなんとなく想像通り。
少しだけ近況を報告します。選手を引退したとは言え、非常に光栄かつ有難いことに女子部監督のオファーをいただき、現在も週に2,3回は駒場キャンパス第二体育館に足を運びバレーボールに勤しんでいます。引退試合の2日後から女子部の練習に行くことになり引退した実感や感慨を味わう暇もなく、なんだか今でも現役を続けているような感覚があります。少し変わったことと言えば、日常生活の主軸が部活動から研究生活にシフトしたことでしょうか。最近は週6.5日は研究室に通い、部活がない日には14時間くらいラボに滞在して研究をし(てしまっ)たり、平日の練習日にも作業を詰め込んでは女子部の練習に行けなくなってしまったりしています。そういう意味では、もはや「部活ファースト」ではなくなってしまった自分の存在に気が付き、少しの寂寥感と女子部員への申し訳なさが募ります。クリスマス前にあったラボ内での卒業研究の要旨提出に耐えるデータを取り終え、教授からの添削を待つ状況になり、ようやく引退ブログを執筆する余裕ができたところです。(追記)年末年始も文章の添削に追われ、年明けも土日昼夜問わずの追加実験と発表練習の手直しラッシュ、その合間に練習に顔を出していたら執筆に2か月以上を要しました。書きたいことが多すぎるのも困りごとでした。もし楽しみにしてくださっていた奇特な方がいらっしゃったら申し訳ありません。
さて、執筆が遅くなった言い訳と近況を報告しているうちにもう1000字を迎えました。すでにお気づきのように、私は文章を簡潔に書くことが得意ではありません。「髪型と話は短い方がかっこいい」(Suzuki, 2024)そうですが、大方の予想通り長いブログになりそうです。最後までお付き合いいただけますと幸いです。
まずは感謝の言葉から伝えさせてください。これまでの4年間、活動を支えてくださった赤門俱楽部のOBOGの皆様、並びに監督・コーチの先輩方。また東大バレー部で共に時間を過ごした先輩方、後輩たち、そして同期のみんな。皆様に支えられ、東大バレー部でかけがえのない充実した日々を過ごすことができました。心から感謝申し上げます。
ただ純粋に選手として技術を向上させる、試合に出場して活躍するということに加え、コロナに始まり、コロナを経て、そしてコロナを乗り越えた先にある新たな部活動の在り方を考え、模索した4年間でした。振り返ってみれば、少々の停滞や憂鬱はあれど退屈や後悔をほとんど感じることのない4年間であり、そう思えるのは東大バレー部に限らず、定期戦や交流試合を通して国内外にできた友人を含め、バレーボールを通じて出会えた皆さんのおかげであると思います。私と出会い関わってくださった皆さん、本当にありがとうございました。
それでは前置きはこれくらいにしておいて、本題に入ろうと思います。本編は以下の通り5部構成でお送りします。とても長くなると思いますが、引退するまで誰にも伝えなかった、伝えられなった内奥についても少し書ければと思います。そして、何か人生の岐路に立ったときに、この引退ブログをもう一度読み返して、在りし日を追想する場所にしたいと思います。最後までお付き合いいただけますと幸いです。
—————————————————————
【第一部】 東大バレー部史
【第二部】 Something like deep inside
【第三部】 後輩たちへ
【第四部】 感謝
【第五部】 おわりに
—————————————————————
【第一部】東大バレー部史
大学入学から引退までをおおよそ半年区切りで振り返ろうと思います。おそらく長く陰鬱な反省とか自分語りが中心ですが、引退ブログにだけ許される特権だと思うので、全て書きます。おそらくブログの8割くらいは第一部で占められると思います。苦手な方はブラウザバックするか他の部分を読んでください。
さて、部活動に対する価値観や考え方というものは多種多様ですが、1つの考え方として、「体育会として大学名を背負って勝利を目指す以上、試合に出場して活躍をすることこそが至上である」という考え方もあるでしょう。私は大学に入学してリベロに転向しましたが、2年秋にベンチ入りを果たして以降、高い高い同期の壁に阻まれ続け、最後の最後まで正リベロの座を射止めることは叶いませんでした。つまり、前述の価値観に則って考えれば、この4年間というものはとても美化・称賛できるものではないのかもしれません。しかしながら、4年の春季リーグ戦途中でリザーブサーバー兼守備固めへの配置転換を受け、本当に有難いことに最後の半年間はコンスタントに出場機会をいただいて試合に関わることができました。そして、最後の秋季リーグ戦では、本当に頼もしい同期と後輩の活躍もあり、失セット0の完全優勝で3部昇格を決めました。「終わり良ければ総て良し」という言葉もあるように、最後の半年間や秋季リーグ戦の結果だけを見てみれば、私の大学バレーひいては15年間にわたるプレーヤー人生は報われた、いや、“報われてしまった”のです。「思い出はいつも綺麗だけど」と歌われるように、引退した今となっては報われなかった苦労も鬱屈とした日々すらもセピア色の思い出となって徐々に美化されつつあるように感じます。だからこそ、第一部は過去をありのままに記録したいと思います。まだ完全に美化されきってはいない過去をありのままに記し、安直に報われた4年間だとはしたくないのです。
◯入学~入部~1年秋
高校時代、新型コロナの流行の影響で最後のIH予選は中止になり、代替の交流試合で引退を迎えたため、バレーボールに対して漠然とした不完全燃焼感を抱えていました。また、中高の部活は常に人数不足で夏の大会で最上級生が引退すれば1年生から常にレギュラー確定という環境でした。厳しい指導者の元でバレー中心の生活を送っていた中学時代と比べれば、毎年地区予選で勝てるかギリギリのレベルの高校バレー、勉強のこともあり日常生活のバレーへのウェイトは必然的に下がってしまっていたのかもしれません。もちろん、当時は自分なりに必死にやっていた“つもり”ではありました。学年に関係なく非常に仲が良い部活で、人間関係的には本当に充実した日々でしたが、1つ上の代の先輩が引退をして6人しかいないチームで主将として練習やチーム作りを考えるようになる中で、チームや自分自身が成長する実感があまり掴めず、極めて良好な人間関係と上手くいかないバレーボールという現実からどこか目を背けていたように思います。友人としての同期や後輩に対する思いと、選手としての同期や後輩に対する思いの捻じれに直面する勇気のなさ、バレーボールを楽しみたいけれど、楽しむためにはそれ相応の実力が必要で、選手の仲の良さだけでは解決できないというギャップが後の不完全燃焼に繋がったのだと思います。そして、指導者からの怒声や扱きを受けて息苦しさを感じながらも技術的に大きな成長を遂げた中学時代に対する懐かしさを感じていました。隣の芝生はいつだって青く見えるのです。だからこそ、レギュラー争いを勝ち抜いて試合に出場をできる環境でバレーボールを、もう一度だけ息苦しいバレーボールを、辛いバレーボールをしたい、そしてその先にある何かを得たいと思い、入学前から入部の意思を固めていました。
正直なところ、東大バレー部のことを甘く見ていた節はありました。東大生である以上は入試という狭き門を突破する必要があり、運動神経や技術的に優れた選手はそんなに多くはないだろう、(小)中高でバレーボールをやっていた経験もあるのだから、真面目に努力をすれば2年か3年あたりでレギュラーになれるだろうと思っていました。そんな甘い考えは、1回目の体験練習であっけなく崩れ去りました。よくよく考えれば当然のことなのにどうして気付かなかったのでしょうか。難しい入試を乗り越え、中高生時代よりも遥かに持て余した時間をアルバイトや“遊び”に費したいという一般的な大学生心理にはそぐわないであろう部活動にわざわざ入部する選手のことです、バレーボールが3度の飯と同じかそれ以上に好きで、これまでのカテゴリーである程度の成功体験や実績を積み重ねてきたはずなのです。
入部の意思は揺るがなかったものの、生半可な覚悟や姿勢では4年間でレギュラーどころかベンチ入りすら叶わないという現実に危機感を抱いて大学バレーが始まりました。皆さんご存じのように私たちの代は後に5人のスタメン級の選手を輩出する“黄金世代”であり、入部当初から輝きを放つ同期と自分を比べては「自分には才能がない。だからこそ、努力量や練習態度、部活動に取り組む姿勢だけは何があっても負けてはならない」と自己暗示をかけ続けることにしました。ユニフォームの番号を選ぶ際にも、色々な理由はありましたが、「自分は同期の中でも1番下手なのだから、最後尾からのスタート。上手くなって大きな番号を背負う自分がコートに立つ未来を演じたい」という思いも強く、当時最大の背番号であった23番を選びました。
ポジションも同期の影響を強く受けました。本当はVリーグ編での日向翔陽のように背が低くても、高く飛んでスパイクを決めて、堅実な守備力でチームを支えるという選手になりたかったのですが、高い身長からキレのあるスパイクを決める同期や先輩方を見て、初めての体験練習で「今日はリベロをやってみたいです」と少し尻込みをしてしまいました。その結果、入部以降もリベロとして練習に参加することとなり、プレーヤーとしての自身のなさからいまさらスパイクを打ちたいとも言い出せず、いとも簡単にスパイカーの道を諦めることになりました。本当はスパイクも練習したかったし、練習をすればマシになっていたかもしれないと思う一方で、入部時の自分の技術を考えればレシーブという1つの技量を極めた方が現実的な成長が見込め、体格的にも劣る自分の武器になるという点では間違いではなかったのかもしれません。選ばなかった未来のことなんていくら考えても仕方ありませんし、選択は自ずと正解になることは決してなく、自分で正解にするものなのです。
当時はコロナの影響もあり、外部での練習試合は全くなく、練習外で先輩とかかわる機会もほとんどありませんでした。練習は毎回似た内容の繰り返しで、前半はレシーブ中心の基礎練を、後半はコート内で複合練習をしている上級生や同期を横目にコートサイドで息を切らしながら9 mのランニングパスを続ける日々でした。下級生にも少しは実戦練習や複合練習をさせて欲しいという思いこそありましたが、練習内容自体に特別不満はありませんでしたし、何よりも上手くなるために何を考えてプレーするのかと考えることが本当に楽しかったです。ただ、当時の4年のリベロの先輩に技術指導をしてもらった際に質問し返したり、「要はこういうことですか」と聞き返したりしていたら、ある日脈絡もなく「髙田は頭でっかちなんだよ」と言われてしまいました。すぐには言葉の意味が理解できずに、帰りの地下鉄で言葉の意味を調べて3日間くらいへこみました。
しかし楽しい時間も束の間、6月の頭にランニングパスが祟って右手首を痛めてしまいました。結局テーピングを巻いてまともに競技復帰ができたのは8月末、痛みが完全に引いたのは10月も終わろうとしていた時期でした。そんな状況でできたことは他の選手やコロナで入構できないマネージャーの代わりに、審判をしたり、ボール拾いをしたり、簡単なスタッツを取ったりすることくらいでしたが、プレーでは全くバリューを出せない自分が少しはチームの役に立っていることに少し居場所と安堵感を感じていました。手首の怪我が思いのほか長引き、秋までに復帰できなかったらアナリストかマネージャーに転向しようと本気で考えた時期もあるほどに、「何もできない、何もしていない自分は何のために部活にいるのだろうか。プレー以外に専念した方がチームの勝ちに貢献できるのではないか」と感じていました。自分は組織に必要とされているという実感が欲しかったのかもしれません。後に主務を務めようと思ったのはこの時期の経験があるからです。
結局のところ1年秋の時点では基礎練すら満足にできておらず、ベンチには程遠い選手でした。しかし、振り返ってみれば、この時期の習慣化や思考が後の自分に大きな影響を与えたように感じます。怪我をしていた時期には、ペアを組んだ先輩のプレーをじっくりと観察してクセや無意識な動作はないかを考え、上手い先輩や同期を見ることで、自分が上手くなるために必要な要素は何かをとことん追求できました。また、誤解を恐れずに言えば、当時の部活動は“古き良き”体育会の影を残す組織でした。「下級生だから仕事をすべきである」「ベンチ外だから仕事をすべきである」というような雰囲気が少なからずあったと思います。気が付けば休日練に朝来る時間が遅くなったり、準備や片づけにあまり参加しなくなったりした同期に不満を感じると同時に、「自分は上手くなっても、そうはならない。上手い選手が手を抜かずに自主練も準備も片付けも部活の仕事も何事もちゃんとやる、そんなチームこそが強くなる。だからこそ自分が上手くなってそういうチームを作らなければならない」という反骨心というか確固たる信念が形成され、後の部活動に対する強いモチベーションとなりました。
◯1年秋~2年春
本格的にプレーヤー生活を再開したものの、自分の理想と現実のギャップに悩み続けました。上手くなるためには、何を意識してプレーをすればいいのか頭で理解をしているつもりでも、自分の思うとおりに身体を動かすことが本当に難しく、練習試合や実戦の経験もほとんど得られませんでした。入部当初から土日の練習に早めに来てネットの準備をして、ボールを触る時間を増やそうと努めていましたが、この時期には、差が詰まるどころかどんどん開いていく一方に感じていました。自分に思いつく付け焼刃のような“努力”ではどうにも埋められない才能やセンスの壁のようなものがあるかもしれないのだと薄ら自覚し始めました。同期に追いつけない焦燥感は「自分には才能がない。だからこそ、努力量や練習態度、部活動に取り組む姿勢だけは何があっても負けてはならない」という入部時に抱いた危機感と自己暗示をさらに強め、歪め始めました。最初は純粋に上手くなりたい、そうするために何をすべきかという冷静な現状把握と情熱のために抱いた感情だったはずでした。しかし、バレーが上手くいかなくても勉強に逃げて安心できていた地方中高生時代とは訳が違います。1Aは毎週の実験とALESSで大量に課される課題に加えて、授業内容を理解するのも一苦労で、週16コマの授業に欠かさず出席をして、部活以外の時間は寝るか授業の課題に取り組むことがほとんどという日々が続きました。これまで精神的支柱としてきた学業に対しての挫折感も相まって、知らず知らずのうちにメンタルが擦り減ってしまいました。何も持っていない自分は「何事もちゃんとやる」からこそ部活にいてもいい、自分という存在は真面目に立ち居振舞うからこそ居場所を担保される、求められる真面目さに忠実でないといけない、他人の中にある自分のイメージを壊さないようにしなければならない、そんな強迫観念が心を支配していたように思います。本当は友好関係を広げたり、深めたり、他者に教えを請うたりするために自分の外に外に向けて用いるはずのエネルギーは、自分の信念や考えを守る鎧としての強い思想や言動に費やされ、硬くて脆い自我を保ち、自分と他人の境界線を守ることに、認められうる自分の在り方を守るために自分の内に内に向かって費やされました。今思えば本当にもったいなかった。
しかし、この辛さは過去の自分の選択の結果としてあるのだから、自分が望んだ未来の結果としてあるのだから、自分の選択に責任を持ち努力をするのは当然のことであり、現実から目を背け逃げ出したら何も残らない。それどころか、逃げたという事実がさらに呪縛となって自分を苦しめるという思いから、なんとか部活を続けました。幸か不幸か完全な限界を迎える前に試験が終わり、その直後に部内でクラスターが生じ1か月超部活動が停止しました。心身ともに限界一歩手前というところで強制的に部活動から離れることになったのは、今から考えるととても幸運なことでした。停止期間中にやっぱり自分には大好きなバレーボールしかない、もっと上手くなりたいということを再確認し、気持ちを新たにしてもう一度頑張ろうと決意しました。
◯2年春~2年秋
3年半で最も傾きの大きな成長曲線を描くことができました。春季リーグの順位決定戦で様々なチーム事情も重なってピンチサーバーとしての出場機会をいただきましたが、緊張のあまりミスをしてしまい、与えられたチャンスで結果を出せなかった不甲斐なさが練習の原動力になりました。2Sはスケジュール的にもかなり余裕があったため、色々なことに取り組めました。自分のプレーしている感覚と実際の質が一致していない原因を探る中で左右の視力差に原因があることに気が付いて右目にコンタクトレンズをつけ始めてみたり、空きコマや昼休みを活かして裏門近くにあるQOMジムや第二体育館のトレーニングルームに通ったり、自宅で毎晩懸垂をしたりと持て余した時間とアルバイトで得た稼ぎを費やしました。特にQOMジムで体幹の使い方や身体の動かし方を学べたおかげで、今までは思い通りに動かなかった身体が少しずつ思い通りに動くようになったり、同期や先輩からもらったアドバイスを体現するためにどのように身体を動かしたら良いのかが思いつくようになったりして、バレーボールにより一層ハマった時期になりました。この時期に「アドバイスを聞いて言われたことができるようになる」という選手から「言われたことを実行するためにどう身体を動かすか考えられる、言語化できる」という選手になれたことは本当に良かったと思います。また、下級生にリベロがいなかった影響で、徐々に再開し始めた各種定期戦の新人戦にリベロとして出場させていただく機会も増え、コート内でプレーする時間が長くなることで新たな気づきや課題が得られ、それに対するアプローチを考えて練習に取り組み、さらに技術が向上するという好循環が続いていました。
一方で、双青戦や七大戦本戦はベンチ外となり、現実はそんなに甘くはないことも知りました。双青戦本戦、ベンチ外には試合を観戦する権利すらありませんでした。会場の時間の都合上、コート上で躍動する同期や先輩を横目に片付けや掃除に奔走しました。七大戦本戦、ベンチメンバーよりも早く会場に入り審判やスタッツを取ったり、馬鹿になったように大声を出して応援したりしました。七大戦というお祭りの雰囲気の中で輝く同期や先輩を見て心底羨ましく、ユニフォームを着られるのか着られないのか、試合に出られるのか出られないのかには決定的な差があるのだとまざまざと感じさせられました。そして、必ずあの舞台に立ちたい、そのために必要なことは何でもすることを固く誓いました。
と、色々思い悩んだりはしながらも、結局のところバレーボールの調子は常に右肩上がりだったため依然としてバレーボールへのモチベーションは高く幸せな毎日でした。七大戦の悔しさをバネに長期休暇期間の平日は15時からQOMジムで1時間のトレーニング、16時からコートを準備して1時間自主練、その後4時間練習をするという習慣が確立されました。その甲斐もあってか、9月から10月にかけて特にディグの守備範囲と反応が向上し、秋季リーグでは初めてセカンドリベロとしてのベンチ入りを果たすことができました。入部したころから掲げていた2年生の間にベンチ争いに勝つという目標を達成したことは本当に自信になりましたし、3歩進んで2歩下がるというような日々の繰り返しではありましたが、地道に手を抜かずに必死になって取り組む姿勢は決して間違いではなかったと思えました。チームとしては秋季リーグ戦で優勝を果たし7年ぶりの3部昇格を果たし、その歓喜の瞬間をユニフォームを着て迎えられたことが何よりも嬉しかったです。

◯2年秋〜3年春
人間関係や組織運営についての思考を巡らせた時期でした。新主将のもと、チームの運営方針がガラリと変わり、上級生と下級生という境界線や感覚を超えて様々な意見や思いを尊重しようという方針になったと覚えています。また、粗相や規律に対しては、ペナルティや連帯責任制度があった最初の2年と比べて緩くなり、個人の自主性や自律性によるところが大きくなりました。また、各部員の組織運営に対するコミットの仕方に対する捉え方が大きく変容したことも覚えています。誤解を恐れずに言えば、技術に秀でており試合に出場できる部員は、その技術を試合で発揮したり練習をリードしたりすることでチームの勝利に「貢献」をし、試合に出られない部員はコート外の部分でチームの勝利に「貢献」をするというような空気感を感じていました。自分自身が試合に出られない側であり、穿った見方をしてしまっていたということは大いにありますが、眼に見える形で特定の部員に仕事や練習の準備や片づけなどの仕事が集中し始め、気づいたらすぐにやる人、他人に気を遣って仕事をする人が勝手に担当者やその役割の人にされてしまっているような空気感も感じていました。大学の体育会という勝利を目指すために取り組む場としては、試合に出て活躍する選手がバリューを出せるというのは自然の摂理ではあるのですが、試合に出る側の部員の粗相やコート外での立ち居振る舞いなどに疑問符を感じる頻度は格段に増え、自分の中にあったチームに対する信頼感のようなものが少し揺らいでしまっていました。春にはチームとして7年ぶりに3部リーグに挑戦するという状態にあり、個々人の技術的には成長を感じられる日々でしたが、試合に勝利するために技術と同等かそれ以上に必要なチームの結束感というかまとまりのようなものの高まりをあまり感じられませんでした。
そんな状況での自分自身の立ち居振る舞いは適切だったかというと、全くそうではありませんでした。本当は自分の中に確固たる信念として秘めておけばよいようなことを口走り、自らの言動に潜む加害性のようなものにとことん無自覚・無頓着であったように思います。「上手い選手が手を抜かずに自主練も準備も片付けも部活の仕事も何事もちゃんとやる、そんなチームこそが強くなる。」という信念や理想像が災いし、そうではない現状に対する不満を撒き散らし、当時の主将に対する批判的な態度を抑えきれないこともしばしば、振り返ってみれば当時の自分は本当に嫌な人間だったのだろうと思います。質が悪いことに、「自分はいつも早く来て準備をして自主練をしているのだから」だとか「誰もやりたがらない仕事を自分がいつもやっている」だとか「誰も言わないのなら、誰かが言わなきゃ仕方がない。勝てるのなら強い言葉を言ってチームのために嫌われ役になることも厭わない」というように「自身が何に取り組んだのか、自分がチームに何を与えたのか、与えるのか」ということばかりに執着をして正当化や自己陶酔も甚だしく、救いようのない思考回路をしていたように思います。自分なりの「正しさ」というものに拘泥し、他人からどう見られているのかというメタ認知に欠けていました。もう少し自分の内へ内へと向けるべきエネルギーのベクトルをあまりに外に外に向けすぎていたのかもしれません。本当はもっと徳永さんと一緒にチームの在り方について話す時間を取るべきでしたし、自分が一体感の求心力となれるような立ち居振る舞いをすべきだったという後悔は尽きません。しかしながら、選ばなかった過去のことを今更考えても仕方がありません。変えられるのは自分の思考と言動と現状だけなのです。
他方で選手としては、2年前半と比べると緩やかではありましたが、相変わらず順調に成長曲線を描くことができていました。成長した点は色々ありますが、この時期はひたすらにディグの反応とコース取り、読みが良くなりました。東商戦の新人戦でAチームでも試合に出ている相手1年生エースの強打のコースを読み切って数本Aパスにした記憶は東大バレー部の走馬灯には必ず出てくるワンシーンです。リベロとしては「練習でできることはコート内である程度再現できる。自分の仕事はできる。」という選手に脱皮しつつありました。ただ、リベロというポジションの宿命として、自分がどれだけ安定したプレーをしようと得点に繋がらない、試合に勝てないということも多く、そんな中で「自分は仕事をしているのに、スパイクが決まらないから、ミスをするから」というどこか他責の思考や、「自分がやるべきとことは出来たから満足」というように思うことも増えていました。ここでも自分のプレーにばかり集中していて、プレーヤーとしてチームが勝つために何をするのか、どういうテーマでバレーをするのかという視点が欠けていました。当時は試合にやっと絡めるようになって、自分が試合に出ていいプレーをするということばかり考えていました。パスが上がっても攻撃が決まらないと試合には勝てないし、試合に勝てないと自分の評価は上がらないし、Aチームに混ぜてもらって強い味方や相手と試合をして経験を積まないとより成長できない、というようなこともぼんやりと考えていました。今思い返せば、「出してもらえない」というような受身の姿勢ではなく、もっと自分から何かを求める選手であるべきだったのかもしれません。
◯3年春〜3年秋
3年半で最も辛く苦しく、常に頭の片隅に退部と休部がちらついていました。原因は色々ありますが、成長の実感はあるのに全く試合に出られないこと、試合に負け続け雰囲気が良くないチームの中で自分の居場所や価値、役割を上手く見つけられなかったこと、本郷と駒場の往復生活に疲弊してしまったことが主な原因だと思います。正直今でも何が原因でどんな思いを抱いていたのかを上手く消化、昇華しきれていません。
チームとしては7年ぶりに復帰した3部でのリーグ戦に向け新たなチームの在り方を模索しながらの日々でしたが、主力の怪我が相次ぎ、チームとしての一体感も若干欠けたままリーグ戦に突入しました。個人的には、基礎練期の長めのプラトーからリーグ期間に向けたピーキングに成功して好調を維持していたため、何かの場面で起用してもらえる可能性もあるのではないかと少しだけ期待をしていました。初戦の平成国際大戦は2-0で先行しながらも逆転負けを喫する厳しい展開でしたが、2部から降格してきた相手にも戦えると希望の残る入りでした。しかし、次週の横浜国立大学戦で1-3、城西大学戦でまたもや2-0からのリバーススイープを喫し、首脳陣は場所も憚らずに激しい言い合いを始め、3部の壁の高さとわずかにあった一体感すらも瓦解していくことを肌で実感しました。試合に負けた責任を一挙に背負って涙を流す後輩エースの背中を見て、悔しさを滲ませて唇を噛み締める同期を見て、羨ましさすら感じました。チームが負けたことを悔しいと思うことにすら権利が必要なのかと。チームが負けたのにどこか他人事のように捉えている自分がいました。リーグ戦4日目、東京経済大学戦は明らかな格上であり、翌日に控えた降格決定戦になるであろう神奈川工科大学戦に向けて主力を温存しつつBチームの選手も起用しながら試合を戦うと伝えられていました。少しだけ期待をしました。自分もやっと3部の舞台に立てると。果たして現実は甘くはなかった。試合には1秒たりとも出られませんでした。それでも、腐らなければ、悔しさを押し殺してでも今自分にできることをすればきっと誰かはそれを見ている、そう信じてベンチから盛り上げる声を出そうと努めました。どんな時でも必死さを出して、コートに立てばチームの雰囲気を変えられる存在だと思われたかった。しかし、チームの白けた雰囲気は変えられず、それどころか「声なんか出しても仕方がない、どうしようもない」と後輩に言われてしまう始末でした。翌日の神奈川工科大学戦は長い長い1日でした。試合結果は三度のフルセットの激闘の末東大が破れ、僅か1期での4部への降格が決まりました。そして試合後のある出来事で完全にメンタルが崩壊してしまいました。それは、OBから受け取った差入れを配っていた部員の一言がきっかけでした。試合後も後片付けや審判の準備をしていた都合で、私自身が差入れを配っている控えエリアに戻ってきたのが遅かったことも原因ですが、私は差入れを受け取っていないのにもかかわらず、目前で「差入れ余ったから2つめとってもいいよ」というアナウンスがなされました。そして、その言葉は発したのは奇しくも普段から部内の仕事に一緒に取り組んできた仲間だと思っていた部員でした。「ああ、自分がチームのためにと思ってやってきたことはなんだったのだろうか」と思いました。なんてことない、たった1個のどら焼きを配ってもらえなかった、それだけです。それでも、ユニフォームを着てベンチにいるのに、パフォーマンスは好調を維持していたのに、コーチや主将に何か流れを変えるためにも試合に出して欲しいと訴えたのに、早く会場に入って対戦校のデータを取ったのに、それなのに試合に出ることは叶わず、自分にできることは全てやった“はず”なのに、チームの勝ちには何のプラスの影響をもたらせず、ベンチ登録されたメンバーの中では唯一試合出場時間は0秒で、一緒に取り組んで来たと思っていた仲間にも見てもらえず、ただ指を咥えてチームが負けてゆくことを眺めるだけで、自分は何のためにベンチに居たのだろうか、何のために頑張ってきたのだろうかと何もかも訳が分からなくなりました。いや、今思い返してみると3部の試合に出場するだけの客観的な実力が伴っていなかったにもかかわらず、尊大な自己評価をして勝手に落ち込んでいただけなのかもしれません。ふと冷静に考えたときに、自分がやっていることに自信がなくて、自分の言動には意味があるのだろうかと迷いがあったからなのかもしれません。どこか「チームのため」という接頭辞をつけて、自分がチームにいる意味を自分の外側に見つけたかったのかもしれません。それは真にはチームのためにというよりは、「自分のため」であったのかもしれません。自分がバレーボールや部活動をする意味は自分の内側にベクトルを向けて見つけ出すものなのに、あまりにも自分の外側に意味や価値を求めすぎていたのかもしれません。チームが解散した後、平成国際大学と東京経済大学とのリーグ優勝決定戦を見ながら常川さんに感情を吐露した時間の長さと重さは今でも忘れられません。
つらさにさらに拍車をかける出来事もありました。リーグ1か月後に行われた順位決定戦はいわゆる消化試合であり、経験を積むためにも下級生主体のチームで試合に望むことになりました。私も試合に出場できることになりましたが、リーグに向けて仕上がっていたレシーブの調子はメンタル悪化のあおりを受けてか下降曲線を描いており、決して万全ではありませんでした。また、リベロとしてリーグ戦に出場をするのは初めての機会であり、それなりに緊張をしました。蓋を開けてみると全く良いパフォーマンスを出来ずに1-3で試合に敗れました。調子が下降してきたタイミングでの起用で結果を残せずに「髙田は試合に出すにはまだ早い」と判断されるであろうことへの悔しさ、リーグ戦で声が枯れるほど応援したのにもかかわらず普段Aチームで試合に出ているメンバーがベンチから声を出して応援してくれなかったこと、試合に負けたにもかかわらず「消化試合だし結果はそれほど重要ではない」という雰囲気がチーム内に漂っていたこと、それによって「自分の悔しさには価値がないのではないか」と感じてしまったこと、色々な感情が混ざり合って城西大学のロビーで頭からタオルを被って30分ほど泣きました。そして、ほとんど誰も慰めに来てはくれなかった。そっとしてくれるという優しさだったのかもしれませんが、その事実もひたすらつらかった。もしかすると代替わり以降半年間の立ち居振る舞いに対する当然の報いを受けただけだったのかもしれません。
リーグ戦終了後はチームの雰囲気も重く、自分自身のモチベーションの低下も相まって部活に行くのがつらくなりました。部活がある日は朝起きて「今日は部活に行けるかな」と不安を抱きながら大学に向かい、部活に行けた日には「今日も部活に行けた」と安堵し、大学の実習が長引いて練習に行けない日にはあまり後ろめたさを感じないようになってしまっていました。部活に行けた日も他の部員との距離感が掴めず、ミーティングを終えて第二体育館から駒場東大前駅まで歩く間会話の輪の中に入れずただ1人ぽつぽつと歩くこともしばしばでした。
そんな中でも部活動を休まずに続けられたのは、消極的には七大戦の主管運営で中心メンバーだったことです。誰かに主管運営の仕事を任せて休部することもできましたが、性格上自分がやるべきことを投げ出したところで後悔することは目に見えていましたし、チームメイトだけではなく他大学に迷惑をかけるという事実に耐える勇気はありませんでした。積極的な理由としては能丸さんや川辺さんを通じて女子部の同期との交流を持てたことに尽きると思います。詳しくは割愛しますが私たちの代の男女部の仲は色々あって微妙な関係でしたが、男子部に居場所を感じられずに苦しんでいる現状をどうにかするには、何処か他の場所に心のよりどころを求めるほかはなく、気が付くと女子部の同期とかかわる機会が増えていきました。唐突に近づいてきたこんなに卑屈さにあふれる人間を、理由を聞くでもなくただただ優しく受け入れてくれて、つかず離れずのほどよい距離感でかかわってくれて、東大バレー部に自分の居場所はまだあったと思わせてくれた女子部の同期のみんなには心からの感謝しかありません。こうやって引退ブログをしたためられているのも、ひとえにみんなのおかげです。本当に本当にありがとう。

その後双青戦や七大戦でもベンチ入りを果たしたものの、結局試合に出場することは出来ませんでした。七大戦でもベンチに登録されたのべ15人のベンチメンバーのうち、またもや私だけが出場時間0秒に終わり、7人の同期のうち自分だけが3年生の時点で七大戦出場時間0秒ということにもなってしまいました。何処で何を間違えてこんなにも差が付いてしまったのか本当に何も分からなかった。自己満足ではあったのかもしれないけれど、自分に出来ること、やりたいこと、やるべきことをコートの内外で常に必死に探して自分なりに取り組んできたという自負はあっただけに、報われない苦しさばかり感じてしまっていました。でも、「もう一度だけ息苦しいバレーボールを、辛いバレーボールをしたい、そしてその先にある何かを得たい」、そう思い部活動を始めたのは自分自身です。自分が始めた物語から逃げることは他の誰が許そうとも自分が許す訳がありませんでした。
そんなこんなで突入した秋季リーグ戦、実力差がある相手だったら試合に出してもらえるのではないかと甘く考えていましたが、出場機会は1/2セット程度で、セット途中で鼻血を出してしまい途中退場となってしまいました。リーグ期間中に主将に「自分がベンチに入っている積極的な理由はあるのでしょうか」「どうすれば試合に出られるのでしょうか」、そんな酷なことを聞いてしまう程度には心に余裕がありませんでした。自分が試合に出られなくても、チームが勝てばそれでいいと思えるほど成熟した選手になりきれていませんでした。結局チームは実質的な昇格決定戦となる千葉大学戦に1-2で敗れて4部残留となり、代替わりを迎えました。
◯3年秋〜4年春
主務という役職がつき、執行代となったことで部活動に対する解像度がより一層高まりました。3年生のころあれほどまでにチームに疎外感を感じていたのに、代替わり以降1か月ほど練習に取り組んでみて「案外楽しいな」という感想を抱いていました。「主務」という肩書きがつき、少なくとも自分の居場所や役割が担保されたというような感覚があったのかもしれません。膨大な事務仕事に忙殺されるような日々でしたが、OBOGの先輩方や部の代表として様々な外部の方とかかわる中で「これこそが自分にしかできないことだ」と本当にやりがいを感じていました。コロナの影響で直近の引継ぎ資料がない中で追い出しコンパや新歓コンパの企画や運営を1から考えたり、香港大学との交流試合で急ごしらえの懇親会をなんとか開催したり、これまで練習試合格だった三大戦をOBOGへの告知やパンフレット作成で準公式戦格に押し上げたり、東レアローズとの合宿についての折衝を行ったりと、この半年間を振り返って思い出されることは主務としてプレーの外で拘って取り組んだことばかりです。自分がポストコロナの東大バレー部の新たな文化の礎を築くのだという、またもや尊大な使命感すら感じていました。「白紺正装の廃止」にこぎつけたことだけは後輩に感謝して欲しいかもしれないです。(こんな恩着せがましい先輩は嫌ですね。)こんな風に自分の好きなように主務の仕事に取り組めたのは、女子部主務で同期の井上さんのおかげでもあります。同じく理系で主務を務めながらも、レギュラーとしてチームの中核を担い、主務2年目ということで仕事も本当に早くて尊敬するところばかりでした。スピードや要領では敵わない分、せめて量や質では肩を並べたいという向上心を抱かせてくれるような本当に頼りがいがあって、最高の相棒でした。井上さんの存在もあってか、主務の仕事にやりがいと楽しさを感じるあまりに仕事を増やしてしまった挙句、ほとんど誰にも仕事を振らなかったせいで属人的な主務像を作り上げてしまったことには反省が残っているので、後代の方は遠慮せずに頼ってください。
執行代としては、如何にして応援されるチームであるか、如何にして試合に出ていない選手もチームの一員として疎外感を感じずに居られるかということを考えていました。自分が試合に出られなくてもチームが勝てばそれでいい、自分の感情なんか二の次で、最後には信頼できるようなチーム、そんなチームを作るために何ができるだろうかと考えていました。下級生のころの「試合に出ないとOBOGに名前や顔を覚えてもらえなかった、他校の学生との交流も上手くいかなかった」という苦い記憶を基に、OBOGや父兄に向けて全部員の顔写真とプロフィールの入った選手紹介を配布したり、主管した定期戦では学年会の実施を促したりするなど、「自分は部活動を通じて色々な人とつながりを作れている」「試合に出られなくても様々な交流を通じて、大学で部活動をする意味は見つけられる」と思えるような環境を作ろうと思いました。選手としては、長期休暇中の平日練と土日練では必ず早く体育館に行って、早く来て練習や準備に取り組む後輩や同期の姿を見届けようと思いました。執行代になるまでは自分が早く体育館に来て練習し、自分が上手くなることばかり考えていましたが、チームが強くなるためには、チームに対する信頼感や自信を持って各部員が活動に取り組めるようになるには、「どんなに小さなことでも自分の取り組みを見ている人がいる」「自分の取り組みには意味がある」と思えるような環境を作らなければならないと考えていました。
選手としての振り返りをするならば、2つ下の後輩リベロの成長が著しく、引退までセカンドリベロの地位に安住は出来ないという危機感を七大戦あたりから薄らと感じていました。学業や主務の仕事が多忙を極めた都合で、練習外でトレーニングをする時間がほとんど確保できなかった反面、自分はどんなプレーだったらバリューを出せるのか、コート内で自分に出来ることは何かということを考えるのに費やす時間は増えました。戦略や起用面での幅を広げるために時間を見つけてはトップカテゴリーの試合観戦にも通い、本来はリベロ登録の選手がリザーブサーバーとして登場し、その後3ローテ後衛で守備固めをするという起用法を目にして、セカンドリベロでベンチ外になっても生き残る道を模索し始めました。リベロとしては「自分のやるべきことを考え、それは何とかできる」という選手であり、チームを勝たせられる、守備の要として指示出しを出来るという選手ではなかったため、空き時間でサーブを練習する時間が増えました。2月の体育館でほぼ毎練習前に1人で50~60本近くサーブを打ったことは一生忘れないことでしょう。
結局のところ、東商戦や三大戦までは大方の想定に反してセカンドリベロの地位に留まって試合に出ることができ、これらの定期戦では他大に仲のいい同期や後輩も出来て、3年生も終盤にして漸く東大の部活でバレーをしていて良かったと思えるようになり始めました。
◯4年春〜4年秋
1番泣いて、1番笑った半年間、東大バレー部にいられて良かったと心の底から思えた半年間でした。頼もしい同期や後輩に囲まれて15年間のプレーヤー人生に区切りをつけるに相応しい時間を過ごせました。
選手としては、再三書いてきたように、春季リーグでもセカンドリベロは厳しいかなとの思いはありつつも、初週の2試合はリベロでのベンチ登録となりました。フルセットとなった初戦の成城大戦では出番がありませんでしたが、2戦目の成蹊大戦では1セット目をダブルスコア差で取ったこともあり、2セット目はスターティングリベロとして試合に出ることになりました。駒場キャンパスでのホームゲームで、沢山のOBOGの先輩方が見守る中でやっと回ってきた出場機会に心は奮い立ち、必ず自分の仕事をしてセットを取り切ろうと意気込んで臨みました。個人的に手ごたえはそこまで悪くなく、絶好調とまではいかずとも平均点くらいのプレーを出せていたと思います。ただ、1セット目の結果を受けて攻撃は緩手となり、スパイクやサーブのミスも増え始め、1セット目と比べるとピリッとしない内容で、点差もつかずにじりじりとシーソーゲームのような展開が続きました。試合終盤、22-20とリードした場面でのサイドアウトで相手エースのジャンプサーブが肩口に伸びてきてサービスエースを取られてしまいました。次のサーブこそAパスを返そうと思って立ち上がった瞬間、ベンチの川辺さんから「西山と交代しろ」との指示を伝えられて、またもやセット途中でコートを後にすることになりました。屈辱的でした。結局試合自体には25-22で勝利をしたものの、コートエンドに整列をしたことも、応援してくださったOBOGの先輩方に挨拶をしたことも半分くらいしか覚えていません。チームは勝ったのに1人だけ負けたかのような表情でのろのろと歩いてコートを後にしたと思います。結局また第二体育館のアリーナを出たところで蹲って1人で泣きました。4年生にもなって、バレー人生15年目にもなって嗚咽を漏らしながら泣きました。人生で1番悔しかった。練習でミスをして「もう1本」と口にしたときに、「試合にもう1回はない」と何度も𠮟られた中学時代を思い出しました。引退までに自分がリベロとしてコートに戻ることはもうないのかもしれないと思いました。結局アリーナには30分弱戻れず、その間誰も探しに来てくれる訳でもありませんでした。その後に戻ったアリーナでコーチの川辺さんや能丸さんと沢山話をしました。「浮ついたコート内の雰囲気を締めて、セットを取り切るために仕方がなかった」というようなことを言われました。「仕方がなかった」と言われても納得出来るわけはありませんでしたが、結局自分が取り組んで来たと思っていた、声を出してチームの雰囲気を作れる、チームに流れをもたらせるような選手という目標には程遠かったのだと、自分の取り組みは自己満足だったのだろうかという思考が頭の中でぐるぐるしていました。「これから髙田はどうしたい」とコーチの2人に聞かれました。リベロの座に拘って試合に出られない、ユニフォームを着られない道を選ぶのか、リザーブサーバー兼後衛3枚の守備固めとして試合に出てチームの勝敗に直接関われる可能性のある道を選ぶのかという選択肢を迫られていると解釈しました。思っていたよりも答えは簡単に出ました。「リベロとして試合に出ることは諦めないけれど、チームが試合に勝てるなら、そして自分がそれに貢献できるピースになれるのならばサーバーになりたい」、そんなことを答えたと思います。結局チームが勝って3部に昇格できるのならば、自分の感情やこだわりなんて些末なものだし、少しでも出場の可能性があるポジションに居られる方がチームの勝敗を他人事のように感じなくて済むと思いました。
転向したリザーブサーバーですが、報われる瞬間は意外とすぐにやってきました。屈辱の交代から1週間後の東京電機大戦、第2セット中盤に出場しサービスエースを取りました。何度も動画を見返して、このローテならここを狙おうと準備をして、トスを上げた瞬間に良いサーブが打てる感覚がして、決まった瞬間同期や後輩が駆け寄ってきた、あの痺れる瞬間とより一層にバレーにハマる感覚は生涯忘れられないのだろうと思います。大学バレーで何百本、何千本と打ってきた中のたった1本のサーブで、努力が報われるとはこういうことを言うのだと思いました。次週の昇格決定戦となった文教大戦、結局昇格を果たすことはできませんでした。でも、試合が終わった瞬間に「チームは報われるに足る努力をしているのだから、秋は必ず昇格できる」と自然に思いました。チームを信頼できるかどうかは、結局のところ自分やチームに対する取り組みに自信を持てるか、そして自信を持てるほどの取り組みをしたか否かで決まるのだと感じました。
1週間後の順位決定戦、「ベンチメンバーは3枚キャッチのスタッツで決める」と突然の発表があり、セカンドリベロとしてもリザーブサーバーとしても枠を争いました。正直突然で、平日は研究があって途中参加になってしまって3枚キャッチが始まるまでに身体は十分に温まらないから、競争相手と比べてビハインドからのスタートになると思いつつ、可能な限り研究を早く切り上げたり、土曜の朝7時半に川辺さんを呼び出してキャッチ練習をしたりとその時点で出来る最大限のことをしました。結果としては両方ともあと2,3本のところで及ばす、順位決定戦はベンチ外でした。データという客観的な指標を前に何も言い訳は出来ませんでしたが、少し不利な状況でもその時点でできること、やるべきことをすべてやって敗れたことに後悔はありませんでしたし、フルセットまでもつれた順位決定戦を見ながら「自分はチームに必要な存在なのに、どうしてベンチにいないのだろう」と根拠もないけれど、自然とそう思えたときに自分の中で何かが変わったように感じます。
その後の引退までのバレーボールは人生で1番楽しかったです。(実は3枚キャッチのデータでは僕の方がABパス率は高かったのですが)、双青戦ではサーバー兼守備固めで出場を果たし、初めてAチームとしてコート上でセットを取得した瞬間に立ち会えました。責任者として望んだ主管運営では直前1か月前あたりから当日までトラブルや想定外の連続ばかりでしたが、運営メンバーのみんなの頑張りのおかげで無事に終わることができ、3年間一度も勝つことが出来なかった京大に3-0で完勝し、個人的に嬉しい経験もして、安堵感やら達成感やらが混ざり合ってまたもや号泣して座り込んでしまいました。気遣ってくれた皆さん、その節はありがとうございました。
7月に行った東レアローズ静岡との合宿も、第一線で活躍するプロバレーボーラーと一緒にプレーをすることで技術的にもメンタル的にも選手として非常に刺激を受けたことは言うまでもなく、半年以上をかけて練習日程やその他の交渉を行ったこと、チームスタッフの方々と色々なお話をして、技術向上に向けた視点の見つけ方やコートの外だからこそチームに還元できることがあるということを知れて、非常にいい経験になりました。あと4か月しか選手の時間が残されていないことが名残惜しかった。
下級生の頃から出場を切望して止まなかった七大戦でも6試合中4試合に出場することが出来ましたし、東北戦、京大戦ではサーバーから守備固めとしてコートに残り、サーブで狙われてもAカットを返し、さらにはチームが試合に勝利をする瞬間を初めてコート上で迎えることが出来ました。九州大学戦で自分が上げたサーブレシーブを梶田がセットして渡邊が決めた瞬間、京都大学戦(?)で自分がギリギリで上げて乱れたブロックフォローを西山が必死に繋いでくれてロングラリーにして、最後は淀川のスパイクで決めきった瞬間、ただ憧れるだけだった同期と同じコートで戦い、やっと本当の意味で仲間になれた気がしました。報われるってこういうことだとまたもや思いました。引退したから言えることですが、七大戦終了4日後に大学院入試を控えるという日程もあり、院試勉強のために部活を休もうかかなり葛藤しました。でも、自分のユニフォームは確約されたものではなかったし、自分が何よりも出たかった七大戦を諦めてしまったずっと後悔をすると思って、院試勉強も部活も手を抜かないことを決めて本当に良かったです。迷ったら厳しい道になるであろう選択をした方が後悔をしないで済むのかもしれません。
そして迎えた最後のリーグ戦期間の3週間、あのときのチームの一体感、勝つべくして勝つというバレーボールを展開した時間も忘れられません。4戦目の横浜国立大学戦以外の試合でリザーブサーバーとして出場し、うち3試合は後衛3枚の守備固めも務めました。100%のパフォーマンスが出来たかというと疑問符が残りますが、「これまで練習してきたことは絶対に裏切らない、自分には出来ると」確信を持って戦うことが出来ました。守備固めの起用はOHのパイプを減らし、攻撃枚数を減らしてしまうため、パイプを潰してまで起用する価値のあるプレーヤーにならないと、攻撃という武器を持たなくても尚、コートに立つ価値があるプレーヤーにならないといけないと考えていただけに、リベロとして磨いてきた守備力を認められ、居場所を求めて磨いたサーブを認められたように思いました。個人的には、自分が試合に出場するということは、ある種勝ちパターンの1人として試合を締めにいく、確実にこの試合を取りに行くという起用であるように感じていたので、ものすごく嬉しいものでした。半年前に「浮ついたコート内の雰囲気を締めて、セットを取り切るために仕方がなかった」と交代させられた自分が、試合を最後に締めに行くというポジションになれたことは本当に嬉しかった。最後の最後、昇格が掛かった東京電機大戦では2セットともワンポイントサーバーで出場しましたが、2本とも即ミスをしてしまったので、諸手を挙げて報われた訳ではないのですが、何から何まで報われる訳でもないというところも自分らしいなと思います。人生で打ったサーブの中で1番緊張しました。ミスにはなりましたが、そのミスに至るまでの過程や練習に対して悔いはありませんでしたし、何よりも「自分がミスをしても、このチームなら必ず取り返してくれる」と心の底からの確信を持って信頼出来るチームだったので、ミスという結果に反省はあれど、後悔はありません。そして、1セット目でサーブミスをした自分を信じて2セット目にも起用をしてくれたベンチスタッフの皆さんには頭が上がりません。最後の1点が決まった瞬間の喜び、後輩や同期と交わした抱擁の暖かさ、みんなで歌った「ただ一つ」、あの景色を、時間を忘れることは一生ないでしょう。昇格を決めた会場の横浜国立大学は奇しくも3年春に3部降格を経験し、メンタルが崩壊し、部活動を辞めたいと思った会場であり、私自身はそれ以来の来校でした。そんな会場で昇格というバレー人生の夢が叶いました。選手としては決して主人公ではなかったけれど、運命があるのならこういうことだ、と思いました。幸せでした。

◯最後に
振り返ってみると楽しかった思い出はほとんど最後の1年や半年に集約されていますが、それまでの2年半や3年間の苦労や辛さ以上に大きな幸せを感じて引退を迎えることができました。受け取った引退アルバムにはどれも私には勿体ないようなことばかり書いてもらえました。結局3年半続けられたことは、少し早めに体育館に来て、一礼して体育館に入り、準備をする、それくらいでした。それでも、こんなにも沢山の良き同期と後輩たちに囲まれて、報われたと思って引退出来る。こんなにも幸せでいいんでしょうか。本当にありがとう。
【第二部】Something like deep inside
◯努力
さんは、努力は報われるという言葉は好きですか。私は大学バレーを経て、この言葉に対する解像度や解釈が少しだけ変わりました。そもそも努力とは何でしょうか。筋トレをすること?練習動画を何度も見返すこと?誰よりも声を出すこと?自主練をすること?プレー外で色々なことをすること?各人に色々な答えがあると思いますが、「これが正しい努力だ」と十把一絡げに言えるようなものではありません。どんなに小さなことであれ、人の目に映りやすいようなものであれ、そうでないものであれ、何事かに必死に取り組んでいるということでは、当人にとってそれは努力なのであって、客観的に見て「これが努力だ」と判断できるものはないし、努力に優劣はないのだと思います。他人の目に映りやすい努力をすることが得意な人がいれば、そうではない努力をすることが得意な人もいるし、眼に見えて結果が出ていないからと言って、努力をしていない訳ではないのだと思います。
今となってはこんな考え方に落ち着きましたが、下級生の頃は自分の中の凝り固まった「正しい努力」みたいなものや「報われること」に拘泥をしていました。心のどこかで、「努力したら報われる」と何かの見返りを求めるかのように考えていて、これだけやれば必ず報われるはずだと思っていたし、その姿を見て欲しい、見てもらって認められたいという強烈な承認欲を飼いならせてはいませんでした。思い返せば、伸び悩んでいた時期は、報われるために「努力をすること」が目的になってしまい、頑張ることを頑張ろうとしていたように感じます。ダルビッシュ有さんの言葉を借りるなら、「練習は嘘をつかないという言葉があるけれど、頭を使って練習しないと普通に嘘を付く」ということなのだと思います。報われたいからと無闇矢鱈に頑張るのではなく、もっと自分が試合に出るためには何にタスクフォーカスをして、そのために何をするのか、そしてどんなプレーヤーとしてコートに立ちたいのかを能動的に考える必要がありました。逆に言えば、最後の半年や技術が伸びた時期には、自分は何をしたいのか、何をすべきかをチームスタッフともよくコミュニケーションを取れていたのだと思います。何かを頑張るということは飽くまで手段であって、それ自体は目的ではないと気付くのに随分と時間が掛かりました。朝早く体育館に来るのも、対戦校のデータを取るのも、それ自体が評価されるようなものでは決してなく、練習内では満足いくまで練習できないプレーにさらに磨きをかけ、試合に出場した際にフォーカスすべきタスクを見つけて実行するために必要なことでした。ただそうすれば漠然と上手くなることなんて決してないのだと思います。
部活動をやっていて良かった、報われたと感じる瞬間はいつどんな瞬間にやってくるのか分かりません。繰り返す週4回4時間の練習に息苦しさを感じ、もう立ち止まってしまいたいと思った次の日かもしれないし、1週間後かもしれないし、1年後かもしれないし、引退の間際かもしれないし、引退して数年経ったときかもしれない。でも、明日や遠い未来に報われたと感じるために今日努力をしている訳ではないし、できることなら今この瞬間に報われたいです。きっとその瞬間がやってくる、自分の力はこんなものではない、そう強く信じてもう一歩を踏み出すことは嘆き諦めることよりたぶん難しいですが、あと一歩踏み込んでいれば見えていたかもしれない景色を見ずに諦めるのはなんだか勿体ないような気がしなくもないです。もしもう少しだけ頑張ってみようと決めたのなら、脇目も振らずに自分がやることを徹底的にやればいいし、報われなかったときのことは報われなかったときに考えればいいし、平凡な自分には下を向いている時間すらないし、できるようになるまでやればできると思いました。そうやって取り組んだ最後の半年間、思い出すだけで心が奮い立つような、自信が蘇るような瞬間に何度も出会えました。「努力が報われた」という言葉はどこか生存者バイアスのかかった言葉で、その言葉の裏には努力しても報われなかったであろうその他大勢の人たちもきっといて、だから安易に「努力が報われた」とまでは言えませんし、努力らしい努力が出来ていたのかはよく分かりませんが、取り組みが報われたのかなあということくらいは口にしてもいいのかなと感じています。
3年半努力とは何かを考え続けた結果気付いたこととしては、自分では頑張りや苦労だと思っていないような取り組みを「頑張っているね」と他人に言ってもらえて初めてそれは努力だったと分かる、努力になるということです。すごく抽象的ですが、最初には少し背伸びをして頑張っていたこと、頑張らないと出来なかったことでも、見返りを求める姿勢を脱して、ただ淡々と丁寧に反復、継続することが出来るようになって初めて、その取り組みが努力になるのだと思いました。自分でこれは頑張っているぞと思っている間は見返りを求める姿勢から脱することはできていないのかなと。そう考えたときに、自分が努力と呼ぶに相応しい行動が出来ていたか分かりませんし、取り組みが正しかったと確信を持っては言えませんが、少なくとも間違ってはいなかったのかなあと思います。この文章を読んでいる方にも、後輩のみんなにもそんな取り組みをして欲しいですし、他人の取り組みに、努力に関心を持って欲しいなと思います。なんだかすごくポエミーな文章になってしまいましたが、何かの機会に言語化をしたいと思っていたことが言語化できたような気がするので、これで良しとします。
【第三部】後輩たちへ
これからも部活動を続けるであろう後輩の皆さんに、少しだけお願いをしたいと思います。それは、どんなときも「自分のためにバレーボールをする」「バレーボールを好きなままでいる」ことです。Aチームであれ、Bチームであれ、ベンチ外であれ、マネージャーであれ、どんな立場であれ、部活動を続けるということは楽しいことばかりではないと思います。努力をしても報われないなと感じることもあるでしょう。チームのためにと思って何かに取り組むうちに、組織の中で「その仕事をする人」になってしまい、最初は見返りなんて求めていなかったのに、心の中にわだかまりを感じてしまうこともあるでしょう。仲間の思いを背負ってコートに立つプレッシャーに押しつぶされそうに感じたり、周囲の期待に応えようとして色々なことを背負い込んで苦しくなったりすることもあるでしょう。部活動という道を選んだために諦めなければならないことに出会い、部活動を選ばなかった未来のことを考えたくなることもあるでしょう。そんなときに、自分は今何のために、誰のためにバレーボールをしているのかを忘れないで欲しいです。結局のところ、「バレーボールが好き」「上手くなりたい」という思いがバレーボールをする理由なのではないでしょうか。3年半を振り返ったとき、僕は「報われたい」だとか「チームのために」ということばかりをごちゃごちゃと考えて、あまりにもこの感情を忘れている時間が長かったのかなと少しだけ後悔があります。バレーボールが好きだから、もっと上手になりたいから日々の練習をしているということを見失ってしまうと、苦しいことばかりです。誰でもない自分のためにバレーボールをしていることを忘れないで欲しいです。もし部活動を続けるのがつらいと感じたときには、少し立ち止まって自分が部活動をする理由を考えて欲しいです。立ち止まって考えたときに、「やっぱりバレーが好きで上手くなりたい」「そのために部活動で頑張りたい」と思ってもらえたら嬉しいけれど、部活動を続けることでバレーボールが嫌いになってしまうくらいならば、無理に部活動を続ける必要はないと思います。バレーボールが好きだという感情を1番大事にして欲しい。でも、もし続ける勇気を持てたのなら、同じようなことを考えているかもしれない同期や後輩、先輩と話をしてみたり、チーム運営を考えたりして、そう感じる人が1人でも少なくなるような組織を、文化を作っていって欲しいと思います。みんなになら出来ると思います。心から応援しています。
【第四部】感謝
改めて色々な方にお礼を述べさせてください。
柳川監督・学生コーチの先輩方
技術的に至らない部分も本当に多くありましたが、練習試合や公式戦で辛抱強く起用をしてくださり、成長する機会を与えてくださり、本当に本当にありがとうございました。時には起用法や運営面で激しく言い合ったこと、一方的にやり場のない感情を向けた未熟さをお許しください。常川さん、博雅さん、能丸さん、川辺さん、どんなときにも真っすぐに「髙田は頑張っている」という言葉をくださって本当にありがとうございました。何度も何度も救われました。皆さんのような現役に寄り添う優しさを持った学生監督になります。
R4卒の先輩方
一緒にプレーする時間は短かったですが、東大バレー部に対する愛情の強さを、後輩に対する優しさを、何事にも極限まで取り組むストイックさを、そして淡々とでも丁寧に最後までやり抜く姿勢の大切さを学ばせていただきました。皆さんとの出会いなくしてこの4年間をやり抜くことは出来なかったと思います。本当にありがとうございました。
R5卒の先輩方
先輩との思い出と言えば1番色濃く思い出される世代の皆さんです。現役の間も引退後も何度もご飯に連れて行ってくださったり、何度も試合に応援に来てくださったり、学生スタッフとして男女部を支えてくださったりと本当に感謝しかありません。とても下級生とは思えない言動ばかりで、メンタル面でもかなり不安定という扱いに困る後輩でしたが、先輩方の面倒見の良さに幾度となく救われました。本当にありがとうございました。
R6卒の先輩方
学年の差を感じさせずに関わらせていただき本当にありがとうございました。皆さんが執行代として、新たな部活動の形やチームとしての在り方を模索してくださったおかげで、良くも悪くも「古い体育会」だったチームが一人ひとりの個性や自由が尊重されるようなチームへと変わっていったように感じています。そして、その変化の上にチームとしての強さや新たな魅力が醸成されたのだと私は思います。個性あふれるキャラクターの集まった皆さんで、一人一人との色々なエピソードも思い出されます。落ち着いたらまたお会いしましょう。本当にありがとうございました。
1学年下の後輩
実は選手として1番思い入れがあるのは1学年下のみんなです。みんなの新人戦にリベロとして出してもらう機会が多く、コート内での記憶を振り返ると同期以上に思い出されます。同じ時期にベンチ入りを果たし、共にAチーム入りを目指す良き同志でありライバルでした。みんなの成長が嬉しく、誇らしく、自分のさらなる向上心に繋がりました。一緒にご飯に行くことくらいしか先輩らしいことは出来なかったけれど、何かと先輩として立ててくれることも多くて感謝しかありません。本当にありがとう。一人一人が着実に努力をして成長してきたみんなが作り上げるチームが楽しみです。
2学年下の後輩
もう少し上手く関われたのかなと少し後悔が残っています。自分自身がメンタル的に落ち込んでいた時期であり、七大戦の主管などプレーの外に取られる時間が多すぎて、もう少し時間を取ってプレーやそれ以外の部分についても話したかったと思ってます。でも、みんな本当に努力家で、部活動の外で継続的にトレーニングをしたり、学業にも真面目に取り組んでいたりと、堅実にやるべきことをやる才能を持ち合わせていると思います。ただ、「自分がやることはここまでかな」とどこか一線を引いてしまうきらいがあるように感じています。真面目に努力して結果を出すことができる子たちばかりなので、自分の限界を自分で決めずに、背中で努力を語ってチームを引っ張れる存在になっていって欲しいと思っています。執行代でどんなチームを作ってくれるか楽しみです。
3学年下の後輩
過ごした時間以上に思い入れがあります。みんなに会えた、それだけで部活動を続けていて良かったと心の底から思うことが多かったです。3学年離れた後輩との正しい関わり方は何だろうかと、模索しながらの日々でした。妙に馴れ馴れしくてやたら話しかけてくる先輩だと煩わしく感じることも多かったと思うけれど、距離感を感じさせないような関わり方をしてくれて本当にありがとう。練習前から必死に自主練に取り組む向上心にあふれた努力家ばかりのみんなの代はきっと強くなるし、君たちの存在が上級生やチームを支え、今後入ってくる後輩の手本になることは間違いないです。東大バレー部がもっともっと強くなる文化を築き上げ、その中心にいてください。君たちが最上級生になったときにどんなチームを作り上げるのか、楽しみで仕方ありません。
女子部同期
感謝してもしきれません。女子部で監督をするという道が開けたのも、バレーを続けていて良かった、報われたと思えたのも、3年生のときに4人それぞれと関わる中で心の拠りどころが見つけられたような気がして、部活動を続ける勇気を持てたからだと思います。本当に本当にありがとう。しばらくはチームスタッフとして女子部に残ると思うので、また一緒にバレーをしましょう。僕は自分がチームスタッフをしている間に4部昇格を達成する瞬間を現役たち、そして同期のみんなと一緒に見ることが、バレー人生の次の夢です。これからも末永くよろしくお願いします。
男子部同期
とても卑屈で扱いに困る同期だったけれど、諦めずに、見捨てずに付き合ってくれて本当にありがとう。バレー以外のことになるとだらしなかったり、途端にまとまりがなくなったりするような代だったけれど、バレーになると目の色が変わって、勝利に向かって同じ方向を向いてまとまっていく感覚が本当に好きだった。良くも悪くも「俺はここまで出来るし、やるけれど、お前はどうすんの」というようなオーラはプレッシャーでもあり、向上心の源でもあった。みんなの活躍を見て何度も劣等感や苦しさを感じたけれど、それ以上に誇らしさや嬉しさばかりで、自慢の同期だった。きっとこの8人でなければバレー部で過ごした時間はこんなにも大切なものにならなかったと思う。本当にありがとう。また一緒にバレーしよう。本当に本当にありがとう。
【第五部】おわりに
この引退ブログもついに28,000字を迎えようとしています。もし全部読んでくださった方がいらっしゃったら、お疲れ様でしたと伝えたいです。卒論くらいのボリュームにはなったでしょうか。引退ブログ以外にももっとやるべきこと、やりたいことがあっただろうと感じた人も多くいらっしゃると思います。私もそう思います。引退ブログを書ききってしまったら前に進めるんだ、前に進まなきゃいけないんだと頭ではわかっていて、だからこそ、自分で区切りをつけるのが怖かったのかもしれません。長々と書き連ねて来ましたが、まだまだ書き尽くせないほどに東京大学運動会バレーボール部で過ごした4年間は素晴らしく濃密な時間であり、決して色褪せることのない生涯の宝物であり続けます。
4年間で出会い一緒にチームを作り上げた優しく面倒見の良い先輩方、可愛く活躍を願ってやまない後輩たち、そして何よりも頼もしく愛してやまない同期たち。皆さんとの出会いは一生の宝物です。本当に本当にありがとうございました。歩む道は別れ、生活の交わる機会は少なくなる方ばかりですが、必ずまたどこかでお会いしましょう。願わくはしわくちゃなお爺さん、お婆さんになっても共に過ごした濃密な時間を、一球に込めた情熱を、そして各々が4年間の中で得た何かを思い出し、語らいあって懐かしみましょう。
4年間本当に本当にお世話になりました。
