お久しぶりです。
4年生 15番の井手宥志です。
先の3人が書いたように、先日の埼玉大学戦をもって東大バレー部を引退しました。
七大学戦優勝も2部昇格も成し遂げられませんでした。
これだけの時間を割いて練習してきて、最後のシーズンがこのくらいの相手にあっさり負けて終わったのかと思うと虚しいです。
引退して10日…ボンヤリ、フワフワと活力のない日々を過ごしてしまっています。
10年間続けてきたバレーボールが終わり、(僕のオーバーパスを見た人は、10年やっていたと信じてくれませんが…)これから残りの100年間何をしていけばいいのだろうと途方に暮れています。
部屋でゴロンゴロンしていているとき、もうバレーをしないとわかっているのですが、
インターネット上の1部リーグの試合の動画で、中央大学の石川選手や、順天堂大学・東海大学の僕と同じ左利きのオポジットの選手を観て、
「こういうプレーできたらなぁ」と未だに考えてしまいます。
不器用で、運動能力も低く、精神的にも弱い自分。
入部当初と比べれば、大学での4年間で自分はかなり上達したと思いますが、思い描いていたレベルには全く届きませんでした。
1枚ブロックは必ず決める、2枚いてもインナー、ストレート、ブロックアウト、リバウンド等工夫して得点につなげる、
鈴木くんくらいのブロックならば上から打つ、伊藤くんの短いトスもうまく捌く、宮原くんがカットを弾いても二段を打ち込む、熊越くんがトランスして僕にマークが集中しても決めきる、竹田くんがサーブ即ミスして流れが悪くなっても僕のスパイクで振り払う。
そして試合の行方を左右する大事な場面では必ず僕にトスが上がり、必ず決める。
こういう選手になりたかったです。。。
(せめてバックライトが安定して打てれば色々な結果が違っていたかも…)
入部当初より期待をかけて、我慢して起用してくださったスタッフの方々には、申し訳ありません。
僕についてのあらゆることに共通しますが、理想ばかり高くて、そこに辿り着くための手段が解っていないし、圧倒的に努力が足りませんでした。
今後の人生での課題ですね。
結果には満足できませんが、東大バレー部での日々は本当に楽しかったです。
部活に行くのが楽しいというのは大学が初めてでした。
スタッフにも先輩にも同期にも後輩にも恵まれました。
生意気で子供っぽい僕に先輩方は優しくかまってくださいました。
(今でも食事や飲みや麻雀に誘ってくださって本当に幸せです。)
威厳のある先輩にはなれませんでしたが、後輩とも仲良く楽しく過ごせました。
(福島くんや三上くん、柳町くん、僕を舐めきっていた分は必ず下から返ってきます。)
懐かしい写真が出てきたので何枚か紹介させてください。
写真をみて思い出したことをつらつら書くのでどうぞ読み飛ばしてください。
1年時の福岡開催の七大学戦での写真です。みんなで博多ラーメンを食べに行きました。
そもそもは、地元福岡で面白い大会がある。というのが入部のきっかけでした。
部屋は伊藤くんとの2人部屋でした。この頃まではキザで怖いやつというイメージだったのですが、音楽の趣味が一緒だと発覚するなど、仲良くなりました。
完璧なイメージの強い熊越くんですが、この大会中に寝坊してマネージャーからビンタされています。
1年生の頃の僕は、一か八かピンチサーバーをしていました。
リーグ戦の文教大学戦と横浜国立大学戦でサービスエースを取って当時の4年生の先輩に褒めてもらったのがとても嬉しかったです。
当時1年生だった僕達は本当に仲だけは良くていつも集まっていました。
竹田くんの家で、彼の誕生日パーティをした写真です。
みんな若い。。。
未成年のため完全ソフトドリンクなのが初々しいです。
鈴木くんのブログで彼が自身のファッションに言及していたので1年のころの彼の写真を載せておきます。(左です。右が伊藤くん。)
1年の終わりの静岡練習合宿です。
僕が人生で1番太っていた時期です。
Bチームで宮原くんがセッターで僕がライトという福岡ー佐賀 三瀬峠ホットラインを形成していました。(レフトエースは、当時Bチームの主将を務められていた南日さん)
この頃のパスの相手は谷田部先輩で、毎日ワンマンをつけてもらっていました。
夕食の席で、カラオケマシンを使って木場くんが「大切なもの」を熱唱していました。
今では信じられないくらい部員が少ないです。
僕自身、なかなか試合に出られる見通しがなく苦しい時期でしたが先輩や同期に支えられて続けていました。
2年のときの仙台合宿の写真です。
当時坊主にしていた鈴木くんがオレンジの毛布をかぶるとダライ・ラマにしか見えませんでした。
全部員が大広間に布団を敷いて寝るという印象深い合宿でした。
朝昼に試合をして夜まで練習する厳しい日程の合宿、
早朝には誰かが目覚ましを鳴らすたびに
全員が起こされてピリピリしていたのが懐かしいです。(CHAGE and ASKAのYA-YA-YAを2番まで大音量で流したのは僕ですごめんなさい。)
なお、この頃の鈴木くんは世間知らずで、霞が関の財務省に勤めるOBの先輩を訪問する際に埼玉県の霞が関駅に行ってしまいました。
七大前に不幸な事故で足首を負傷した僕はこの年暮れまでろくに動けませんでした。
田内さんと京さんの代に全く貢献できなかったのが残念です。
クイックモッパーとして床は拭きましたが。
3年の京都開催の7大戦の学年会の様子です。
年に1度しか会えないのですが毎年毎年仲良くなっていきました。
また、宿舎で3年生は5日間一緒の部屋でした。
竹田くんや熊越くんの悩みを夜中まで話し合いました。
この頃は、男子部内、男子部女子部間が色々とざわついていましたね。
僕はブレませんでした。
様々なチーム事情が重なり、僕はこのころからまともに試合に出れるようになりました。
かなりやりにくかったと思いますが、栗岡さん、南日さん、谷田部さんが優しくサポートしてくださったので思い切ってプレー出来ました。
最後の京大戦の写真です。朝まで京大の体育館の階段で語り明かして、早朝の鴨川で写真を撮りました。
セットカウント0−2から逆転した、忘れられない試合です。
毎年激戦を繰り広げた京大の同期はかけがえのない仲間です。
4年の七大学戦で銭湯に行ったときの写真です。
4年間、特に七大学戦ではよく銭湯に行きました。
勝った日も負けた日も、銭湯で汗を流して明日に向けて気持ちを切り替えました。
大阪の銭湯で、谷田部先輩、八馬くんや桑鶴くんとあるランキングの話をしたり。
京都の銭湯で、谷田部先輩とドイツ人留学生と3人で仲良くなったり
(毎回毎回谷田部先輩は僕に冷水をかけてきました。)
またお風呂あがりにみんなでコーヒー牛乳をかけたじゃんけんに燃えたり、
(苦しい戦いとなった4年次の七大学戦、じゃんけんは僕の全勝でした。)
コートを離れて部員と過ごす時間も楽しかったです。
さて、まだまだ色々な話を思い出すのですが、そろそろ自重します。
一人で思い出に浸って申し訳ありません。
最高の仲間に恵まれた4年間でした。
大学に入ってからあらゆる選択が裏目に出ていますが、バレー部を選んだことだけは絶対に正しかった。
おじさんになっても、じいさんになっても、バレー部の仲間と仲良くできていたらいいなあと思います。
(松永部長と宇垣副部長のような関係が、いいなあと思います。)
東大バレー部に関わってくださった全ての方々、本当にありがとうございました。
東大バレー部も、僕もまだまだ良くなります。