こんにちは。かつです。卒論の佳境を迎えているかいちゃんと順番チェンジしてあげるとか大口叩いておきながら、私が期日を余裕で越してしまいましたすみません。
気づいたら12月ということで、もう引退してから1ヶ月以上経ちました。早いものですね。体脂肪もみるみる増えています。恐ろしいものですね。ちなみに今日はこれから運動会忘年会に行ってきます。そういうとこやぞ。
さて、そんなこんなで引退ブログを書いていこうと思うのですが、色々とりとめもなく書いては消してを繰り返していたらしっかり期日を過ぎていましたすみません(2回目)
自分の鬱日記みたいなの見せてもなあと思ったりいやでも引退ブログってそういうもんかって思ったり。
ブログなんて文字を書くだけなんだから、いい子ぶることも、綺麗事を書き連ねることもまあできるんですが、今更誰に媚を売るんだって話なので、思ったことを正直につらつら書きたいと思います。
これが、少しでも誰かの心に響いて、何かを考えるきっかけになれば幸いです。
さて、前置きが長くなりましたがざっくりと大学4年間のバレー生活を振り返っていこうと思います。まあゆるっとお付き合いください。
1年。私は部活に入ることにためらいがありませんでした。できることなら他と兼サーしようかと思ったりしたし実際総務部に入るまで実は合気道サークルに入ってちゃんと合宿も部活の合間縫って行っていたのですが、そこには絶対バレー部に所属するという前提条件がありました。
普通に「運動部」の雰囲気が好きだったし、ストイックにレベルアップしたかったからです。そういうバレーが好きでした。だからバレーの練習は好きでした。冬練が嫌いと言う部員もいましたが、私は基礎レベルが向上する冬練は割と好きでした。
2年。コートで活躍する同期が増えてきました。私はベンチだったりベンチ外だったり。練習もコート外だったり中だったり。当時コーチをしていらした南日さんに「おまえは育成枠だから」と言われたのをよく覚えています。そうだなと思いました。今はコートに立てなくても、3、4年でチームに貢献できる選手になろう。そう思って練習していました。なのでコート外にいるときもそんなに苦じゃありませんでした。ボールに触れないつまらなさはありましたがコートの外で筋トレをするのは嫌いではありませんでした。素直なので笑
一方で2年の冬に男バレOBの堀江さんから言われた言葉もとてもよく覚えています。二体で練習終わりの集合で、わりとにこにこ優しい感じの堀江さんに厳しめの口調で「ただバレーしたいだけならサークルと同じ」と言われました。このある意味当たり前な言葉が、個人的にめちゃくちゃ刺さりました。
漠然とバレーをしてはいけない、自己満足なバレーではいけないと強く思った瞬間でした。それ以来、勝つために、チームのために何かしなくては、という思いが、どこまで実践できていたかはさておき、意識としては根付いていました。私の部活への姿勢が変化する一つのきっかけでした。
その後、色々しんどくなってきたのは3、4年からでした。育成枠というのは、育成価値があるから育成枠なのであって、将来性のない選手を育成する意味はありません。私は思ったより上手くなりませんでした。総務とか実習とか言い訳しようと思えばいくらでもできますがまあ結局言い訳したところで自分が上手くなっていないというのが事実として残っただけで、私は、周りや、それ以上に自分自身が、期待していたほど上手くなれませんでした。
3年秋、レギュラーから外れたのが悔しすぎて、試合に出る選手が発表されたメールを夜練習からの帰り道に見たとき、感情のままに携帯を投げて割ってしまったのはほろ苦い(?)思い出です。良い子は真似しないように。ついでにパソコンと椅子も割っただなんてそんなまさかねパソコンはマジで割らない方がいい普通に自分が困る
4年春。部員の怪我などもあり、試合に出ました。私がコートに立ったのはこれが最後です。とても緊張したのをよく覚えています。勝ちたい気持ち、チームに貢献したい気持ちが強すぎて肩に力が入りすぎたのでしょう。結果は酷いものでした。
そして4年夏。七大戦。みんなメンタルズタボロで雰囲気最悪の大会でした。
この時私は何をしていたかというと総務のクレーム対応をしていました。バレーに集中していない自分にイラついていました。
登録外選手になって、外から応援してて、でもみんないっぱいいっぱいになってて視野が狭くなってて、どうにも声が届いている気がしなくて、なんで自分声枯らしてるんだろな声出すのやめよっかなバカらしいという不誠実な考えが頭をよぎったのは一回ではありませんでした。
4年秋。コーチの川田さんに土曜午前練のあと呼ばれて、今後登録選手メンバーには入れない旨を伝えられました。言ってしまえば戦力外通告です。心の準備はしていましたがやっぱりしんどいものがありました。全部下手な自分が悪いのはわかっていても辛いものでした。家まで泣きながら帰りました。
実力主義の世界ですから戦力外と言われたものは仕方がない。しかしチームに属している以上、チームの勝利に貢献はしたい。だっている意味がないから。みんなが意味ある存在でいる中で自分だけチームに必要ない存在だと感じた時の居心地の悪さと言ったら。こういう時人は退部を考えるのでしょう。
でも私は辞めたくありませんでした。だから存在意義を探しました。しかし後輩に声を掛けたり分析を手伝ったり声を出したりしたところで、「これ別に自分じゃなくてもできるんだよな」「声出し係ってなんだよみんなで声出せよ(笑)」という考えは消えなくて、自分の存在意義を探せば探すほど本当に自分要らない感がすごくて、別に誰に否定されたとかじゃないし元はと言えば自分の能力不足が原因なのだけれどにしても居心地は悪いものでした。でも「私なんて要らない」なんて陰気臭い雰囲気を漂わせてチームの空気を悪くするわけにもいかないので、へらへらと薄っぺらいふざけた笑顔を取り繕うことしかできなくて、そんな薄っぺらい自分に嫌気がさして、でもだからと言って今自分にできることが他にあるわけでもなくて、要は用無しで、その事実を見たくなくて見ないふりをして、とにかくバレーに集中しようとしていました。
チームのことを心から思いやり、他人の幸せをもっと自分の幸せとして感じ、そのためにもっと献身的にやりがいをもって支えることができる「できた人間」だったら、こんなにも歪んだめんどくさい性格に振り回されることもなかっただろうにと思うことはしょっちゅうです。そんな正しいことを正しくできる人をただ羨むことしか私にはできませんでした。
引退の日。順位決定戦。同期がコートの中で活躍する姿を外から見ていました。ここまで一緒に苦楽を共にした同期がコートで笑っているのを見るのは素直に嬉しかったです。その感情は本当です。ただ、自分がそこにいないことへのモヤモヤが全くないといえば嘘になります。自分のバレーはこれで終わるのかという不甲斐なさは消せませんでした。最後までチームのことに集中できず、自分の不甲斐なさとか考えてる自分はたいそう自己中心的なやつなんじゃないか、ひどくわがまま人間なんじゃないかと思ってはそれにも萎えてました。本当にどうしようもないやつでした。
振り返れば振り返るほどかっこ悪くて中途半端なバレー人生ではありますがそれでも私が本当に部を辞めたいと思ったことはあまりありませんでした。レギュラーから外された時、戦力外通告をされた時、たくさん不甲斐ない思いをして、ああ今自分が消えてもこのチームは回ってしまうんだなと思った時、それでもそこに退部という文字はあまりありませんでした。
ひとえにバレーが好きだったからです。
結局バレーが好きでした。こんなに下手くそなのに。それでもどうしようもなくバレーが好きでした。
バレーがなかったらこんなにも苦しまなかったというのは間違いありませんが、それでも、私は一瞬上手くいった時、勝った時の喜びが本当に好きで仕方ありませんでした。
4年秋、もう自分がコートに立つことはおろか、ユニフォームすら身につけられないと決まった時も、私は、それでも、練習がある限り、引退するその日まで、上手くなろう、その想いを忘れずに持ち続けよう、と自分に約束しました。
もちろん、このチームで勝つために自分ができる最大限のサポートを模索し続けることは前提にありました。ただ、それだけだったら、私が練習する意味は本当にもうなかったのです。でも私はバレーがしたかった。みんなと一緒に上手くなりたかった。運動部としての本気のバレーをして挑み続けたかった。
私が、心の支えにしていた言葉があります。
かの有名な将棋士である羽生善治さんの言葉です。
「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。」
私のこの4年間のバレー生活は、決して必ずしも報われたと言える結果ではなかったかもしれません。しかし、強くなりたい、もっとうまくなりたいという気持ちが引退する日まで消えることはありませんでした。
挑み続けたこと、うまくなりたいと思っては、それでもうまくいかない理想と現実の差に何度も打ちのめされて、何度もくじけそうになって、でもまた挑み続けるその行為が、価値あることだと、それは決して当たり前にできることではないのだとこの言葉に出会って肯定された時に、本当に救われた思いだったのです。自己満だ利己的だと思う人もいるかもしれません。そうかもしれません。私はチームで一番利己的でわがままな人間かもしれません。でも、これが私を支えてくれた言葉でした。自分のしていることは間違っていないと信じるしかできなかったのです。それすら疑ってしまったら、挑むことすら否定してしまったら、もう私が部にいる意味が本当に見出せなくなってしまいそうだったのです。実際もう練習に行く意味がわからなくなっていたでしょう。
この言葉に支えられて初めて、私はチームのために、後輩や同期のために何かしようと思う心の余裕を確保していたのです。
川勝は思いやりがあるだとか、優しいだとか言ってくれる人もいましたが、私の本質は所詮どこまでも利己的でわがままで、バレーをしたい気持ちが強くて、でもそんな自己中心的な自分のことが嫌いだったからこそ、自分にはない利他的なものに憧れていたからこそ、意識的に、利他的になろうとしていた部分があると思います。
話が下手すぎて終着点がわからなくなりはじめてきているのですが、一つ、はっきり言えることがあります。
もしも、また1年春からやり直せて、所属先を一から選べたとしても、もしこの今の結末を見せられたとしても、私は、どうしようもなくバカなので、やっぱりバレー部を選ぶでしょう。
それが偉いとか言いたいんじゃなくて、ただ、結局全力でぶつかれるバレー環境があって、全力で一緒に戦う仲間がいて、その環境こそが私の居場所だったのです。
今までやらかした回数はもはや数えていませんが、たくさんご迷惑をおかけしました。
こんな私に最後まで居場所をくれたみんなには感謝しかありません。
それぞれに様々な立場で悩み、苦しんだ同期が、誰一人欠けることなく最後まで走りきったことが私は本当に嬉しいです。みんな絶対辛い時期があっただろうにそれを乗り越えたことを誇りに思います。尊敬できる仲間です。
そして、こんな私を可愛がってくれた先輩、慕ってくれた後輩、指導してくれたコーチ、応援してくれたOBOGさん、時にはライバル、時には仲間として支えてくれた他大学のバレー部のみんな、バレーのアドバイスをしてくれたりしょうもないことの話し相手になってくれた男子部、
たくさん仕事をしてくれて私の負担を最小限まで軽くしてくれた総務部のみんな、
時にふざけて、時に真面目に熱くお互いの部活動を語り、頑張ろうなと励ましあった運動会の仲間たち、
みんなに支えられてここまで走り続けることができました。
同期も先輩も後輩もみんな尊敬するところがたくさんあって、自分にないものがたくさんあって、バレー部にいたから今の自分がいると思います。
自分のプレーが嫌いで下手ででもどうしても上手くなりたくてたまに綺麗に打ち込めたスパイクがたまらなく嬉しくて、たくさん泣いてたくさん喜んで文字通り一喜一憂しながらここまできました。
最後一年、自分なんか部に必要ないんじゃないかもう消えてしまいたいと気を抜けば自己否定に走りそうになる自分が常にいて、それは最後まで変わらなくて、それでも、泣きながら、笑いながら、ここまでやりきれてよかったです。
本当にありがとうございました。バレー部で学んだこと、バレー部で感じたことは確実に私の生きる糧となっています。これからは1OGとして可愛い後輩たちをサポートしていきたいと思います。
これからも女子バレーボール部をよろしくお願いします。
稚拙な文章をここまで読んでくださりありがとうございました。